史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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129 巻, 10 号
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  • 2020 年129 巻10 号 p. Cover1-
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/09/16
    ジャーナル フリー
  • 2020 年129 巻10 号 p. Cover2-
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/09/16
    ジャーナル フリー
  • 村 和明
    2020 年129 巻10 号 p. 1-4
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/12/01
    ジャーナル フリー
    本企画の趣旨は、天皇像―すなわち天皇の(図像ではない)イメージ、天皇のあり方・あるべき姿をめぐる像―を分析対象とし、列島のさまざまな時代におけるその形成、変容、利用のあり方を考える、というものである。特に留意したのは、具体的な時代状況・政治過程のなかで考えるという視座と、媒体となる史料・書物に焦点を当てるという方法であった。
    本企画はいうまでもなく、天皇の代替わりをめぐる動向が、国民的な関心をあつめている社会状況を強く意識して企画・開催された。この代替わりに先行して、天皇明仁(当時)による、過去の天皇についての歴史認識をふまえた、現代の日本国憲法下での天皇の役割をめぐる積極的な発言、行動がみられた。国際環境の激動のもと、国内政治・経済の新たな動向が模索される社会において、こうした明仁天皇の言動は強い印象をもって受け止められ、それによって現代日本における天皇(皇族も)についての従来の像・イメージは揺らぎ、意識するとしないとを問わず、再構築がなされてきたように思われる。
    さて、前回の代替わりの前後を振り返ると、やはり学会を越えて関心の大きな盛り上がりがあり、天皇にまつわるさまざまな事象について研究の気運が非常に盛り上った。この盛り上がりが、関心の焦点を少しく変えながらも継続し、現在まで研究成果が蓄積されてきたと評価できるであろう。現在の状況を念頭に置いてこの時期をみるならば、当時の人々が経験してきた時代状況、昭和天皇の人物像、その地位をめぐる政治過程などの要素が、当時の、そしてその後の天皇像や、研究史における問題関心に大きな影響を与えていたことが改めて見てとれよう。こうしたある種の規定性や、天皇像の社会における変容が、広く認識されつつある現在は、天皇や、より広くは世界の君主制をめぐる歴史学にとって、またとない発展の好機ではなかろうか。
    以上のような観点から、本企画では、さまざまな時代における具体的な政治過程とからみあって、天皇のイメージが形成・伝達され、変容してゆく姿に、媒介となる文字資料そのものにこだわりながら、迫ろうとした。これはまた、研究史における天皇像をも史学史的に再検討することを通じて、豊かな研究蓄積を批判的に継承し、新たな発展の手がかりを得ようとする試みである。さらに、近年の歴史学で重視され豊かな成果を生んできた、表象・意識・言説・「伝統」の分析や、こうした動向によって伝統的な蓄積にさらなる深みを加えつつある史料論を活かし、最先端の視座や方法を議論することも意図した。本企画において提示された多様な内容と議論が深められ、また読者諸賢によりさらに豊かな論点や、研究を躍進させる新しい切り口、新しい息吹が汲み出されること、また現在人々が向かい合っている課題を歴史学から考え、歴史学こそがなすべきことは何かを、改めて問う一助となることを期待するものである。
  • 佐藤 雄基
    2020 年129 巻10 号 p. 4-34
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/12/01
    ジャーナル フリー
    治承・寿永の内乱の偶然の産物として、前例のない武家政権が関東に成立した鎌倉時代において、天皇と武家の関係をどのように考えるのかは中世国家論の焦点であったが、鎌倉時代人の《現代史》認識においても難問であったため、鎌倉時代には様々な天皇像・歴史叙述が生み出されていた。本稿では、そうした天皇像の語りが、政治状況と交錯しながら、どのように変化してきたのかを論じた。現実に機能した天皇像・歴史像のもとでどのように「史料」が生成し、それらを後世の歴史家がどのように読みといたのか、複層的に議論を進める。
     鎌倉時代は三度の皇統断絶を経て、天皇像の危機的な状況が生まれる一方で、新たに登場した武家政権の位置づけをめぐって武家像(将軍像)を含みこんだかたちで、天皇像が新たに語られ、また、人びとも天皇像について自らと関連づけて語り始めていた。武家を組み込んだ天皇・藤原氏の像を歴史叙述として体系化したのは『愚管抄』の著者慈円であった。第一章では、慈円の言説が黒田俊雄の提唱した権門体制論と親和的な像であること、また、源頼朝が自らを諸国守護の権門として位置づけようとした構想とも無関係ではなかった。但し、慈円の国制像は必ずしも同時代的に共有されていた訳ではない。後鳥羽院は武芸をはじめとする諸芸能を好み、文武を包摂した君主像を追求していたし、幕府の側でも源実朝が後鳥羽院を模倣して「文」に基づく統治者意識を高めていた。前例のない「武」の権力をどのように位置づけるのか、様々な模索のもとで幕府像も揺れ動いた。
     こうした慈円の構想が現実味をもつのは、承久の乱後の摂家将軍・九条道家の時代であった。第二章では、「文武兼行」の摂家将軍の国制構想が、京・鎌倉に及ぼした影響を検討した。必ずしも九条家に対抗する国制像をもっていなかった鎌倉北条氏は、寛元・宝治・建長という十三世紀半ばの政変を経て、九条家を排除して、後嵯峨院政を支持し、親王将軍を擁立する。京都・公家とは異なる関東・武家が明確に成立し、公武関係が整序された。
    得宗(北条氏の家督)は天皇・公家を包摂する国制像をもたなかった。鎌倉後期の治天は幕府への依存を深めながら、武家を包摂する国制像をもたず、得宗(北条氏)が天皇・親王将軍をそれぞれ支えるという国制となった。北条氏は公家政権の徳治主義を模倣し、独自に「文」を担うとともに、裁判を担うことを自己の任務としたが、天皇・公家と《距離を置く》ことを志向した。そうした北条氏の姿勢ゆえにかえって、幕府の圧倒的な実力を背景にして、人びとの間で得宗をめぐって天皇像とも関連づけて様々な噂が語られるようになった。武家独自の政道観・式目観や得宗・天皇の観念融合の結果、武家が公家・天皇と併存するかたちで中世社会のなかに定着した。
  • 清水 光明
    2020 年129 巻10 号 p. 34-55
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/12/01
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は、近世後期の尊王思想の流通について、幕府の政策(出版統制と編纂事業)との関係で再検討することである。ここでいう尊王思想とは、大政委任論・「みよさし」論・朝廷改革構想・尊王攘夷思想等を念頭に置いている。先行研究は、これらの尊王思想に関してその形成過程や機能に着目してきた。例えば、中国思想(朱子学)との関係や、内政状況(宝暦・明和事件や尊号一件)、外政状況(対露関係やペリー来航)、幕末の政治状況(将軍継嗣問題や安政大獄)等への着目である。
     これらの研究は、尊王思想についての基礎的な成果と見做すことができる。その上で、次の課題は以下の二点である。一点目は、尊王思想の流通と幕府の政策との関係である。近世後期の尊王思想は、天皇・朝廷の権威の上昇や対外危機の勃発によって、幕府の統制を越えて流布したというイメージがある。このイメージは、天保改革における出版統制の強化によって補強される。しかし、尊王思想は、近世後期には広く公然と流布していた。例えば、中井竹山『草茅危言』、頼山陽『日本外史』、会沢正志斎『新論』等である。何故このような現象が生じたのであろうか。本稿では、幕府の政策(出版統制と編纂事業)との関係から、尊王思想が流布する過程と環境を検討する。  二点目は、天皇像と他の為政者像との関係である。よく知られているように、近世日本では幕府が朝廷を厳しく統制した。したがって、この時代の天皇像を考察するためには、天皇と他の為政者(将軍や大名)との相互関係に留意する必要がある。
     以上の観点を踏まえて、本稿では、まず十八世紀から十九世紀にかけての出版統制の変遷と編纂事業の展開を跡付ける。その上で、天保改革において出版統制が大きく変更された経緯や背景を検討する。そして、その変更の結果や機能について分析する。これらの考察を通して、本稿ではこの出版統制の変更(一部規定の緩和)が尊王思想の流通や近世から幕末への連続面・非連続面を考える上で重要な転換点であることを明らかにする。
  • 遠藤 慶太
    2020 年129 巻10 号 p. 55-76
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/12/01
    ジャーナル フリー
    六世紀に即位した継体天皇は、応神天皇五世孫とされる出自、近江・越前と推測される政治基盤といった特徴から、関心の集まる古代天皇(大王)である。
    継体天皇への着目は、近代では『日本書紀』の紀年論からスタートし、皇室内部の並立を想定する学説や陵墓の比定問題へと展開していった。これらの学説は戦後の古代史・考古学にも強い影響を与え、継体・欽明朝の内乱説や三王朝交替説などの議論をもたらしている。
    その一方で継体天皇は、明治期の皇室典範制定において注目されたことも重要である。典範草案の起草者・井上毅は、天皇の正当性を支えるものを血統、すなわち「万世一系ノ天皇」(A line of Emperors unbroken for ages eternal)に求めた。そのときに傍系10親等から即位した継体天皇の位置づけは、皇室典範が起草された当時の現実の課題なのであった。
    歴史のなかで過去の天皇がどのように認識されていたのか、また天皇のイメージはどのような史料に依拠してきたのか。このことを考えるうえで、継体天皇をめぐる議論そのものが研究の題材となりうるだろう。
    本論では、まず六世紀の王権のありかたから新しい王統とされる継体天皇の記事を再検討し、治世の重複を父子での共同統治として理解する仮説を提示した。続いて『神皇正統記』の記述をとりあげ、この段階で皇位の継承に神意をみる新たな視点が導入されたこと、それが継体天皇を思慕する越前の女性を題材とした謡曲「花筐(はながたみ)」や『椿葉記』で主張された崇光流での歴史叙述に反映されたことを論じる。
    このように継体天皇のイメージは『古事記』『日本書紀』のような歴史叙述を枠組み(共通の認識)としながらも、大胆な読み替えや豊かな着想によって再構築され、時代ごとの要請に応じてさらなるイメージが築きあげられてきた。皇位継承の危機ではたびたび六世紀の「史実」が持ち出され、時には十九世紀の越前のように、国学者の実証研究を地域の側で受けいれ、地域の歴史像を確認する動きがみられたのである。
    継体天皇像は受け手によって変容・増殖してきたのであって、それはイメージの運動とでも評しうる。系譜の実証研究が記念碑の建立として史跡を保証する機能を果たしていることをみれば、近代以降の歴史学もふくめてイメージの運動に関与しているといえるのではないか。また蓄積された「歴史」を資源として、地域や時代の要望に応じて柔軟に解釈・引用されることで、天皇のイメージは実感をともなって浸透・再生産されるのであろう。
  • 近藤 和彦
    2020 年129 巻10 号 p. 76-84
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/12/01
    ジャーナル フリー
    天皇像の歴史を君主(monarch)の歴史の共通性において、また特異性において理解したい。ちなみに西洋史で、両大戦間の諸学問をふまえて君主制の研究が進展したのは1970年代からである。2つの面からコメントする。
     A 広く君主制(monarchy)の正当性の要件を考えると、①凱旋将軍、紛議を裁く立法者、神を仲立ちする預言者・司祭といったカリスマ、②そうしたカリスマの継承・相続、③神意を証す聖職者集団による塗油・戴冠の式にある。このうち②の実際は、有力者の推挙・合意によるか(→ 選挙君主)、血統によるか(→ 世襲君主)の両極の中間にあるのが普通である。イギリス近現代史においても1688~89年の名誉革命戦争、1936年エドワード8世の王位継承危機のいずれにおいても、血統原則に選挙(群臣の選み)が接ぎ木された。天皇の継承史にも抗争や廃位があったが、万世一系というフィクションに男子の継体という male chauvinism が加わったのは近代の造作である。
     B 近世・近代日本の主権者が欧語でどう表現されたかも大きな問題である。1613年、イギリス国王ジェイムズが the high and mightie Monarch, the Emperour of Japan に宛てた親書を、日本側では将軍(大御所)が処理し、ときの公式外交作法により「源家康」名で返書した。幕末維新期にはミカド、大君などの欧語訳には混迷があり、明治初期の模索と折衝をへて、ようやく1873~75年に外交文書における主権者名が「天皇」、His Majesty the Emperor of Japan と定まった。NED(のちのOED)をふくむすべての影響力ある辞書はこの明治政府の定訳に従順である。じつは emperor / imperator は主権者にふさわしい名称かもしれないが、そもそも血統という含意はないので、万世一系をとなえる天皇の訳語としては違和感がぬぐえない。とはいえ、世界的に19世紀は多数の「皇帝」が造作された権威主義の時代でもあった。
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