史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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127 巻, 10 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2018 年127 巻10 号 p. Cover1-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/10/20
    ジャーナル フリー
  • 2018 年127 巻10 号 p. Cover2-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/10/20
    ジャーナル フリー
  • ベジエの都市エリートとヴァンドレスの村落共同体 (一三五〇―一四〇〇)
    向井 伸哉
    2018 年127 巻10 号 p. 1-30
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/10/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、南仏ラングドック地方の中央に位置するベジエ市とその南九キロメートルに位置するヴァンドレス村を対象に、十四世紀後半の都市文書と村落文書を組み合わせ、都市=農村関係の政治的側面について解明を行う。
    十四世紀後半、ベジエのエリート(都市自治体の役職経験者)は、①ベジエの国王役人、②一時的な司法的・行政的任務の遂行者、③国王税・地方税の徴税人、④ベジエのコンシュル(執政官=自治体代表)、⑤金貸し、村の所得税収・資産税収ならびに農作物の購入者、⑥個人的協力者・助言者、⑦自治体弁護士など、様々な資格・役割で村落共同体の前に現れる。
    ①②の資格では村に対して司法・行政上の決定権を行使し、③⑤の資格では村に対して財政上の決定権や影響力を行使しつつ、金銭的援助や営利目的の投資を行い、④の資格ではヴァンドレスのコンシュルにある時は対等な関係で助力を与え、ある時は上位の立場からこれを指導し、⑥⑦の資格ではヴァンドレスのコンシュルに様々な助言・助力を与えた。職業の観点からすると、①②には大土地所有者と法曹、③⑤には実業家(商工業)が多く、⑦は法曹が占めている。
    彼ら都市エリートは、ヴァンドレスのエリートに対して、経済的、学識的、政治的資本の所有という点で圧倒的優位に立っており、これらの資本を利用しながら、村を時に支配し、時に保護した。
    十四世紀後半の過酷な戦争環境を生き延びる上で、たしかに村は外部からの軍事的保護を頼りにせず自衛機能を強化した。しかしながら、軍事以外の分野では卓越した経済的・学識的・政治的資本を有する都市エリートの保護を必要とした。領主制から王朝国家へと統治レジームが移行する一方で、戦争による治安悪化が常態化し外部権力からの軍事的保護が無効になった中世後期南フランスにおいて、村落の保護者の役割は、もはや領主ではなく、いまだ君主でもなく、他ならぬ地域首府の都市エリートによって担われたのだ。
  • 対中国政策と実業家人脈から
    菅野 直樹
    2018 年127 巻10 号 p. 34-53
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/10/20
    ジャーナル フリー
    おもに一九六〇年代から八〇年代にかけて西原借款研究が活発であった中、寺内正毅に関して「秉公持平」を標榜しつつも対中政策に当たっては西原亀三をもっぱら重用した、という人物像が当然とされてきたと考えられる。この背景には、寺内自筆の史料がきわめて限られる一方で、西原はこれとは対照的に多くの史料を遺し、西原の目を通した寺内像こそが寺内をめぐる議論の前提となっていた事情があった。こうした寺内像についての理解は、寺内が西原の献言に沿い中国北方段祺瑞政権への「援助=提携」政策と、鉄道・金融・行政の各面に及ぶ「鮮満一体化」を企図していた、とする通説の形成にも寄与した。
    本稿は第一に、南方を含め中国につき寺内がどう認識していたかについて、孫文との親交で知られる安川敬一郎を関連づけて考察する。第二に、西原借款研究が言及していない鶴見祐輔『後藤新平』に記された寺内と大倉の関係に着目する。第三に、第一及び第二の問題を関連づけ、寺内と周囲の関係の中に安川も交え、それらの上でこれまた西原借款研究において触れられていない林権助の回想も踏まえつつ考察し、寺内を捉え直す。
    かくして、本稿はつぎのような寺内像を明確にする。寺内は中国北方政権を肯定しつつもそもそも中国南北調停論を重視していて、この意味で原や安川、勝田や後藤に近かった。これはその後の寺内を考える上でも踏まえるべきことであり、寺内は第一次大戦の進展に伴い北方=段政権を優先していく際にも、西原に比較すると抑制した姿勢であった。寺内には一定の政治的度量と柔軟性があり、西原も、そして大隈前内閣の中国政策に関与していた大倉も、自身の裁量において対中関係の進展に寄与させようとしていた。「鮮満一体化」に関する寺内の姿勢は金融面にほぼ留まり、勝田に委任していたのであった。
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